2013年 04月 03日
二つの命 |
無事に昨晩イタリアの我が家へもどってきました^^
この2ヶ月間で、自分の流産と死を宣告された祖父というふたつの命を通して多くのことを感じさせられました。
それは、命というのはなんてもろくてはかないのだろう、ということ。そしてその一方で「このまま楽に眠るように死ぬことができればいいのに」という思いとは裏腹に、苦しみもがきながらそれでも生き続ける・・・、命の生きる力は強いのだということ。
そして、二つの命に共通して感じたこと・・・それは私たちは一人では決して生きていけないけれど、この世に誕生し、そしてこの世を去るときというのは最終的には一人で戦わなければいけないのだということでした。どんなに変わってあげたい、自分にできることはないだろうか、自分のせいではないだろうか、そう思っても何もすることができない、どうしようもないこともあるのだという現実でした。
それはとても厳しく辛い現実だけれど、一つの命を与えられたこと、生きるということの責任であるのかもしれません。
「死」なんてなくなればいいのに。
もう誰も死ななければいいのに。
これから先、私は何度大切な人の死と向き合わなければならないのかと思うと、胸が苦しくて目の前が真っ暗になり心が張り裂けそうになる。
だけど、
「死」があるからこそ私たちは走り去っていく時の流れの早さを惜しみ、焦り、目標を決めたり、「ああなりたい」「こうしたい」と希望や欲を持つことができるのかもしれません。美しい景色をみて、楽しいときを過ごして、「この時間がずっと続けばいいのに」と思うのかもしれません。
そして、それが生きるということなのかもしれません。
大切に生きたい。
大切に生きよう。
祖母とお揃いのくまもんストラップ。ふふふ、なんかほっこり〜^^
この2ヶ月間で、自分の流産と死を宣告された祖父というふたつの命を通して多くのことを感じさせられました。
それは、命というのはなんてもろくてはかないのだろう、ということ。そしてその一方で「このまま楽に眠るように死ぬことができればいいのに」という思いとは裏腹に、苦しみもがきながらそれでも生き続ける・・・、命の生きる力は強いのだということ。
そして、二つの命に共通して感じたこと・・・それは私たちは一人では決して生きていけないけれど、この世に誕生し、そしてこの世を去るときというのは最終的には一人で戦わなければいけないのだということでした。どんなに変わってあげたい、自分にできることはないだろうか、自分のせいではないだろうか、そう思っても何もすることができない、どうしようもないこともあるのだという現実でした。
それはとても厳しく辛い現実だけれど、一つの命を与えられたこと、生きるということの責任であるのかもしれません。
「死」なんてなくなればいいのに。
もう誰も死ななければいいのに。
これから先、私は何度大切な人の死と向き合わなければならないのかと思うと、胸が苦しくて目の前が真っ暗になり心が張り裂けそうになる。
だけど、
「死」があるからこそ私たちは走り去っていく時の流れの早さを惜しみ、焦り、目標を決めたり、「ああなりたい」「こうしたい」と希望や欲を持つことができるのかもしれません。美しい景色をみて、楽しいときを過ごして、「この時間がずっと続けばいいのに」と思うのかもしれません。
そして、それが生きるということなのかもしれません。
大切に生きたい。
大切に生きよう。
祖母とお揃いのくまもんストラップ。ふふふ、なんかほっこり〜^^
by cipolline
| 2013-04-03 23:28
| 自分のこと
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