2015年 12月 10日
母になって感じる母の偉大さ。 |
長文です。息子のこと、私の母のことについて。興味のある人だけみてください。
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先生が、
注意をしたけど、わかっているのかわかっていないのか反応がいまいちだった。家ではイタリア語は話してますか?イタリア語がわかっていないのでは?
と。
状況を聞いてみると、息子がカゼッタ(小さなお家)に入って遊んでいて、そこに入ってこようとした子に対して、入ってきて欲しくなかったようで思わず顔を引っ掻いたのだと。
年齢的なもの、そしてどんな理由であっても、息子がお友達にした行為はしてはいけないこと。
ただそれを私に報告してきた先生の言い方とか、ちょっと怖くて(普段あまり会うことが少ない先生なので、先生の性格的なものもよく知らないし、もともとちょっと暗めなトーンな先生なのかもしれないけど)、正直かなり落ち込みました。
主人にも話し、翌日は主人も一緒に行ってくれて、話をもう一度聞いてみたら、
「大丈夫よー!女の子の方も傷になるとかではなかったし大丈夫。よく起こることだから!!」
とベテラン先生がどーんと言ってくれたのでほっと一安心。
私は息子に対しては怒ってはいません。その状況下にいたわけではないので。
でも、家でも息子に対してお友達とは仲良く遊ぶんだよ、痛い痛いはダメ!よしよしだよ、って繰り返し言い聞かせることに。
あと、最近口にするようになってきた「mio!(僕の)」については「みんなのだよ」、とその都度言うようにして、どうぞは?というとすんなり渡してくれるように繰り返したり(もちろん毎回素直には渡してくれるわけではないですが)、おやつを食べるときも「半分こね」、と私といつも半分ずつ、もしくは一口ずつ交互に食べるようにすることに。(これは主人とも共有して同じように接していこうと決めました)
今では保育園へいく道のりで、
「ビンビ、ブーア、ノー(子供たち、いたいいたい、だめ)!! (自分の頭をなでなでしながら)いいこいいこ」
を繰り返すようになりました。どこまで分かっているかな?(笑)
この事件が起こった日、母とスカイプをして話していたのだけど、そこで母がいったこと。
「先生は、プロフェッショナルなのだから、ただ報告するのではなくて、だからどうなんだ、だから(家では・親の対応etc)どうすべきんなんだ、っていうところまで分析して教えてくれないとダメだよね。
まあ今回の場合には、”イタリア語がわかるように家庭では話しているのか?”ってことだったんだろうけど、それに関してはパパはイタリア語だしちゃんと理解してるわけだし(実際他の先生からは、前にもイタリア語はちゃんとわかってるよって言ってもらえてた)、理解に関してはこの年齢に応じたものがあるでしょう。まだ一歳なんだもん。
ま、手を出すのはダメだけどね。かっとなるのは完全に母親譲りね〜。あんた自身気をつけなさいよ!!(う・・・最後はそこか!苦笑)」
と言われて、なるほどな、と思ったのでした。
完全に私が母親としてきちんとできていなかったのかな、と落ち込んでいたのでそんな考え方もあるのか、と。
母は、今ケアマネージャーとしてお年寄りの方が家族と離れて暮らす、医療の整った滞在型の施設で働いているのですがそこでの自分のことも教えてくれました。
何かお年寄りの方に問題があったとき・・・例えば夜中に徘徊するおじいさんがいたとして、お見舞いに来た家族に対して
「◯◯さんは、夜中に徘徊するんです」
とだけ報告したら、ご家族は、
「だから、どうしろと?こちらでは手に負えないのか?家族に引き取って欲しいということなのか?」
と不安や不信感を感じてしまうだろう。そうではなくて、ただこういう状況なのだというのを家族に伝えたいのであれば、
「(夜中に徘徊する)だから、夜はゆっくりと睡眠がとれないので、お昼に眠っていることが多いのですよ。一日中眠っているのではないで大丈夫ですからね」
とかいう言い方ができるでしょう?と、下のスタッフに指導してるし、自分もそういう対応を心がけているのだと教えてくれました。
母の言葉はやはり大きいです。
私の弟、今でこそとっても家族思いで「世界で一番尊敬しているのは父親!」なんて言って、二人でお酒を交わし仕事のアドバイスをもらったりしているようですが、こんな日がくるなんて!
10代前半〜21、22くらいまでのイワユル思春期と言われる時期、それはそれは大変でした。
中学校にはいかなくなり、地元のヤンキーや暴力団とつながりのある人とつるむようになり。
まず目つきが変わりました。
教員で、県の教育に直に関わる父親は、そんな息子に背を向けました。
家庭で会話がほぼなくなりました。
帰りたくない家になりました。
私はたった一人の弟が大好きだったから、何かと繋がっていたくてギターを練習したり(彼はギターだけを無心でやっていた)弟の聞く洋楽を知ったふりしてみたり、かじってみたり。(笑)
私はその時大学受験があって、しかも地元ではそれなりに有名な進学校だったのでとりあえず勉強に集中したり、塾に逃げたり、朝も早くから学校へ逃げたり。
それでも母は強かった。
もちろんいっぱいいっぱい泣いていました。何度もお風呂場で泣く後ろ姿を目にしたし、父といい合うのも耳にしました。
でも、いつも、いつでも私たちの見方でいてくれました。
弟が万引きをしたと、学校の先生と警察の人に呼ばれたときも、弟をみながら
「この子はそんなことをする人ではありません!」
と言い続けたそうです。
そのとき、弟は申し訳なくて情けなくて母親を見ることができなかったと、このことはずっとあとになって教えてくれました。
あのときは目つきも変わって怖い弟だったけど、親に対してどんなにひどい暴言を吐いても決して手を挙げることだけはしなかったと、母はそれは嬉しかったんだよ、といつも言っていました。
私に対しても、あんたの大事な人生、弟のせいでダメになったなんて言い訳はさせないよ、とその言葉の通り私に対してもお弁当を作り続けてくれたり、塾への送り迎えや何かとサポートをしてくれました。
今、母は言います。
あんたたちのおかげで、お母さんは世界が大きくなった。
前のお母さんと比べたら、ずいぶん大きな人間になっているんじゃないかな?
私は同じような立場になったときに、母のように息子にきちんと向かいあうことができるのだろうか。
あんなに必死になって、自分のプライドも、世間体も、教員の妻という肩書きも全部全部捨てて息子を信じ続けた母のようにできるだろうか。
正直、自信はないです。
そんなことをちらりと前に母に話したら、笑って言われました。
「あんたたち(私と弟)の子供は、大丈夫よ。そんなグレ方はしないでしょう。だって、こんなに自由に生きてる親たちだよ?やりたいことを貫いた人は、強いし大きいよ」
って。
まだまだ未熟な私たちだけど、
私はずっとずっと海外に行きたくて、海外で生活したくて、人と比べられないようなオリジナルな生き方がしたくてしたくて、たまらなかった。
今の私の生活って、まさにそれなのでは?
私には夢だって叶えたいことだってやりたいことだって、まだまだいっぱいあるけど、あの時描き続けていた夢を現実にしたんだな、と思うことができたら嬉しくなりました。
たった一度の人生。学ぶことはつきません。まだまだこれから頑張らないと!
母の娘であることに、そして息子の母親であることに、主人の妻であることに心から誇りを持ちたいな、と改めて思ったのでした。
by cipolline
| 2015-12-10 04:59
| 家族
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